2005. 9. 25.の説教より
「 イエス様が示された模範 」
ヨハネによる福音書 13章12−20節
誰でもと言っても良いかと思われるのですが、人に仕えるよりも、人に仕えられることを、また、人のために何かをすることよりも、人から何かをしてもらうことを、少なからず願っているのではないでしょうか。しかし、イエス様が、私たちに求めていることはと言いますと、まさにその逆で、人に仕えることであり、人のために何かをすることとなるわけです。今日の14節・15節となりますが、イエス様は、弟子たちに対して、このようなことを、弟子たちの足を一人ひとり洗われたこととの関わりで言われたというのです。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」つまり、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」とです。また、「その模範を示すために弟子たちの足を洗った。」というのです。
同じように、この模範ということで思い起こすことができるイエス様の言葉があります。ルカによる福音書の22章24節以下となりますが、弟子たちが、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と言って議論していたことに対して、イエス様はこのようなことを言われたというのです。「そこで、イエスは言われた。『異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。』」とです。つまり、「あなたがたの中で偉くなりたいと思う人は、いちばん若い者のようになりなさい。上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」とイエス様は言われたというのす。また、そのことを示されるために、イエス様ご自身も「食事の席で、給仕するもののようになられた。」というのです。実際には、人に仕える者となることを示されるためと言うよりは、人に仕える者としてのあり方を、イエス様はそのご生涯を通して貫かれたのでしたが・・・。とにかく、イエス様は、人に仕えられることよりも、人から何かをしてもらうことよりも、人に仕えることこそを、人のために何かをすることことを考えよ、求めよ言われているのです。また、そのことをご自身のあり方から学びなさい、というわけです。
では、実際、このことを、私たちの日常生活のことがらとしては、どのように考えたらよいのでしょうか。なぜなら、私たちの日常生活の中には、どのような場面においても、所謂、偉いとされている人が居るからです。また、地位や立場もあるからです。「そういうものがあってはならない、そういうものがないようにしなさい。」という意味で、イエス様は言われたのだろうか、ということを考えてみますとき、イエス様はそういう意味で言われたのではなく、たとえどのような地位や立場にあったとしても、人に仕えられることよりも、人から何かをしてもらうことよりも、人に仕えることこそを、人のために何かをすることことをこそ考え求めるものでなければならないと言われたものと考えられるのです。しかし、それはたいへん難しいことではないかと思われるのです。どのような地位や立場でも、わずかなりともありますと、人に仕えられることよりも、人から何かをしてもらうことよりも、人に仕えることを、人のために何かをすることなど考えることができなくなってしまうからです。それでなくても、私たちというのは、人から何かをしていただいている場合によくあることですが、初めのうちは感謝をもって受け止めることができたとしても、いつしかそれが当たり前のこととしてしまっていることが多いのではないでしょうか。そうした私たちが、人に仕えることを、人のために何かをすること考えることなどそうそうできることではないのではないかと思われるのです。そのように考えて行きますと、イエス様が私たちに求めておられることは、私たちの中にある自然な感情とはだいぶ違うように考えられるのです。偉くなりたいと考えている人は、そうはいないかもしれませんが、もし、少しでも、他の人よりも偉くなりたい、上でありたいと思うならば、なおさらのこと、他の人に仕えることをこそ、他の人のために何かをすることをこそ考えなければならないからです。
また、このマタイによる福音書で、イエス様が「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。」という言い方をしている背景には、この世の中で、それなりの地位のある人たちというのは、ただ権力を行使している、それなりの地位にある者として、その務めを果たしていると言えるかと言うと、必ずしもそうは言えないのではないか、感情的になることもあれば、きわめて勝手な考え方によって誤った方向にということもあるのではないか、ということがあるのかもしれません。やはり、少しでも、他の人よりも地位が、立場があるならば、なおさらのこと、他の人に仕えることをこそ、他の人のために何かをすることをこそ考えるところがなおさらのことなければならないわけです。言い方を変えれば、どのような人の言葉であっても聞くことができるようでなくてはならないわけです。前回の説教の中で、サーバントリーダーということについて話させていただきましたが、まさに、私たちは、どのような場面においても、どのような人の言葉をも受け止めることができ、人のために何かをするようなことを考えるところがなくてはならないわけです。もし、責任ある地位や立場にあるほどです。実際には、なかなか難しいことではありますが。
とにかく、こうしたことをイエス様が弟子たちに命じておられるのは、弟子たちの足を洗われたから、弟子たちのために食卓で給仕されるものとなったからというだけでなく、パウロがフィリピの手紙の2章6節以下で語っていますように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」「キリストは、神の身分でありながら、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とありますように、自ら進んで私たちのために十字架にかかってくださったからこそと考えることができます。つまり、神様は、イエス様を、十字架にかけて死なせてでも、私たち一人ひとりのことを大切に、かけがえのないものとして考えておられるのだから、私たちがお互いのことを大切にしなくてもよいのか、お互いのことを考えることが無くてもよいのか、ということが、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」とのイエス様の言葉となって語られているものと考えられるわけです。また、そこに、私たちが、他の人のことを大切にする、考えて行く場合のポイントと言いますか、中心があるわけです。ただ、感情的に大切にするとか、考えるということではないわけです。
また、そうだからこそ、16節・17節となりますが、「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と、イエス様は語られているものと思われるのです。言うまでもなく、ここで言われているところの「僕」とは、弟子たちのことであり、私たちのこととなりますが、主人であるイエス様に比べるまでもなく、私たちは優ってはいない者、比べ者にならない者ということになりますが、主人であるイエス様が弟子たちの足を洗うことまでされたからには、なおさらのこと、私たちも互いに足を洗い合わなければならないのは当然ではないか、また、そうすることなくして、私たちに幸いがあるだろうか、という意味合いでイエス様は語っておられるわけです。実際、そうではないかと思われるのです。イエス様が、私たちのために、そこまでしてくださっていることを受け止めているなら、私たちも他の人たちに対して、イエス様がなされたようにということを考えなくても良いのだろうか、と思うのです。もし、少しも、私たちが、イエス様がなされたようにということを考えようとしていなかったしたなら、本当の意味では、たとえ、どんなにイエス様を信じていますと口にしていたとしましても、イエス様が、私たちのために、十字架にかかっまでしてくださったことを受け止めてはいないことになるかもしれないからです。そうしたことからも思うのですが、私たちにとって、力強い信仰とか、純粋な信仰とか、確固たる信仰とかを求めることよりも、自分たちにできるところにおいて、イエス様が私たちのためにしてくださったようにということを求めながら、私たちとしての歩みを続けて行くことこそが、私たちにとっては、なによりも求められることとなるのではないかと考えられるのです。